言葉という道具

 胃もたれ、胸焼けの違いは分かりづらいです。これはどちらも胸~腹にかけた不快感であり、私なりの解釈であれば胃もたれは「胃および下腹部に感じる重い、炎症したかのような不快感」で、胸焼けは「胸あたりに感じるムズムズもやもやした不快感」だと言えます。しかし、この表現で人に伝わるかどうかは難しい所でしょう。
 人間は言葉を作り、現象を言葉という形で理解し伝達し支配してきました。全ての文明の礎となる人類最高の発明と言っていいでしょう。しかしそれ故に、我々は言葉を誰もが使いこなせる単純なものと誤解してはいないでしょうか。上記の胃もたれと胸焼けの例のように、形のない何かを現すには、言葉はあまりに融通が効きません。なまじ普通に文章が書け、話せていると忘れがちですが、言葉というものは使うのがとても難しい道具なのです。
 我々はみんな学校で国語を勉強します。文字の書き方、漢字を学び、多くの物語を読み、そして要旨を捉えたり感情を感じ取ったりしながら、言葉という道具の使い方に慣れてゆきます。そして会話という形で日常生活で当たり前のように言葉を使うようになった時に、自分はもう言葉の使い方はマスターしたと慢心するようになります。
 しかしそれは当然、間違いです。言葉を簡単に使えているのは、言葉を使う相手が友達、家族、そして慣れ親しんだ環境であるからです。たとえば突然、歳の離れた人間と会話をしなければならなくなった場合、少し躊躇するのではないでしょうか。国や立場が大きく違う相手でも同じでしょう。それは会話に限った話ではなく、手紙など書き文字でも同じ筈です。また、曖昧なものを表現する事も非常に難しいです。たとえば貴方が登山をして、素晴らしい日の出の景色を見たとします。その感動を言葉で表現しきる事は出来るでしょうか? 「綺麗」「日の出」といった言葉は存在します、しかしただそれを並べただけでは「感動」は全くといって良いほど表現できず、「ただ日の出を見た」という「情報」しか伝わりません。その感動は、細かく複雑かつ分かりやすい表現をしてようやく、ほんの少しだけ伝える事が出来るのです。
 言葉を使いこなす事は難しい。では、なぜ言葉の使い方をマスターしたと慢心する事が出来るのでしょうか。それは「言葉を並べている」と「言葉を組み立てて表現する」を同一視しているからだと思われます。繰り返しになりますが、言葉は道具です。同じ道具でも適当に扱うのと、技巧を凝らし集中して扱うのとでは難易度も結果も違ってくるという事です。
 言葉の難しい所は、ほとんどの場合「相手」が居るという事です。言葉は何かを伝達する手段。だからただ情報を羅列するだけでなく、相手に合わせて言葉を組み立てねばなりません。導入、表現、順番、比喩、不要なものは省略し、軸となる要素は強調する。ルールや礼節が存在する事もある。これらを上手くこなすには相手の思考と感情を想像する事も大切です。更には、もし自分が完璧に言葉を扱えたとしても、相手が上手く受け取ってくれるかはまた別の話です。自分のアウトプットと、相手のインプット。難しい二つのプロセスを通してようやく「表現」は成立するのです。
 言葉は使いこなすのが難しい道具ですが、何かを表現するためには必須の道具でもあります。言葉そして相手と真摯に向き合ってゆけば、今日よりも明日、明日よりも未来はもっと豊かな表現の中で、彩りある毎日を送れるようになれる筈です。そのためにもまずは、いつもの挨拶、いつものSNSでの発言、そういった部分の言葉選びに少しだけ時間をかけてみてはいかがでしょうか。


それではまた、この世界の片隅でお会いしましょう。