子供の接し方

 昨日は更新が出来ませんでした。やはり忙しい日や疲れている日もあるので、無理に毎日更新は意識せず、自分のペースで進めてゆこうと思います。

 さてさて今日のテーマは「子供の接し方」です。世間のお父さんお母さんが知りたいのは「泣き止ませ方」や「ワガママを直す方法」などを知りたいだろうと思いますが、残念ながらそれらを魔法のように解決する方法は私も知りません。私が今日お伝えしたいのは、それよりももっと手前の事。「言葉よりも行動よりも表情を見る」「子供を馬鹿にしない」の二点です。

 まず一つ目、「言葉よりも行動よりも表情を見る」これはそのままと言えばそのままです。乳幼児ならばもともと話す事が難しいですし、喋れる年齢になっても親怖さに嘘・ごまかしをする事も多々あります。そこで大切なのが表情をつぶさに見る事。笑っているか困っているか等々はもちろんとして、何をしたら笑ったか、何を見たら困ったかをよく観察する事で読み取れるものは非常に多いです。更に、笑っている=ポジティブな感情、泣いている=ネガティブな感情は当然として、無表情・きょとんとしている顔はニュートラルではないと捉える事も重要です。こういった顔はネガティブあるいはネガティブに傾く直前である事が多いです。何故ならこういった表情をするのは状況が把握できていない、何か分からないという状態が多く、問題解決能力が低い子供はそこからネガティブに傾きやすいのです。そして何よりもポイントとなるのは、「子供は自分が認識している世界を全て」と考えやすい事です。自分の表情は、鏡でも使わなければ見る事が出来ません。見る事ができないので認識できない、認識出来ないから取り繕おうという意識も生まれず真っ直ぐな感情が現れやすいという事になります。表情の変化が乏しい子もいますが、そこは汲み取る側が慎重に観察しましょう。視線も大きな意味を持っています。

 そして二つ目、「子供を馬鹿にしない」これは馬鹿にしていないと思っている方もいらっしゃると思います。ですが、こんな経験は無いでしょうか。言葉の分からない赤ん坊の前での口論、幼児が分からない難しい言葉を使って軽口を叩く。こういった事を行うと、正確な意味は伝わらなくとも、子供にネガティブな感情を植え付けます。乳幼児は言葉が分からないからこそ雰囲気に敏感なため、ネガティブな話をしていれば必ずそれを感じ取ってしまいます。

 また、「子供が生意気言うな」「言い訳をするな」など無条件に意見を踏みにじる行為もよくありません。こういった姿勢で接すれば子供は隠し事をするようになりますし、自発的な行動も減ってゆきます。子供はあくまで子供であるだけで、プライドもあれば、子供の世界における社会的立場もあります。そういった事を考えて接してゆけば子供も心を開いてくれるでしょう。

 他に私が実践している事としては、スキンシップです。頭を撫でる、ほっぺたをむにむにする、などなど。これはコミュニケーションツールになると同時に、触れた上で「痛い事をしない」「危害を加えない」という事を伝える働きもあると感じています。

 子供をお持ちの方、特にお母さんは常日頃から子供の相手をして疲れも溜まっているでしょうから、常に余裕を持って対応するということは難しいと思います。ですが上記のような心持ちで接する事を「余裕がなくてできない」と「やらない」では大きな差があると思いますので、どうか心の片隅にでも留めておいて頂けると幸いです。

 

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 コメントについて。

 コメント欄に繰り返し怪文書を書かれる方がいらっしゃったため、削除とブロックをさせて頂きました。おそらく友人の悪戯だとは思いますが……困ったものです。

 

 

今日はこのあたりで。

それではまた、この世界の片隅でお会いしましょう。

 

天動説と地動説

「それでも地球は回っている」
 かのガリレオ・ガリレイが言ったとも、弟子の創作だとも言われるこの言葉を知らない人は少ないでしょう。皆さんも理科や社会の時間で天動説の話を聞いたのではないのでしょうか。
 さて、ここで皆さんに2つ質問があります。一つ目の質問は「地動説を信じていますか?」です。ほとんどの方が「何を当たり前の事を」と仰るでしょう。勿論それで正しいです、問題ありません。そこで二つ目の質問ですが……「地動説が正しいか自分自身の手で確認した事がありますか?」です。これをイエスと答えられる人は決して多くはない筈です。
 私自身、地動説を疑ってなどいません。ですが自分で星の動きを記録するなどして検証した事もありません。多くの皆さんもそうだと思います。私たちは学校の先生から、あるいは本から、先人が導き出した多くの知識を学びます。しかし、与えられた知識をただ丸呑みにしているだけという事も多いと思います。それが悪い事とは言いませんが、この知識を鵜呑みにする行為は、天動説の時代に生きる人間の思考とどれだけの違いがあるのでしょうか。私は、全く違いは無いと考えます。いつの時代も世界を切り拓くのはごくごく一部の才能と努力を兼ね備えた人間のみで、私のような一般の人間はそれにあやかる形でしか世界を見ていないのです。
 この事を踏まえて私が言いたい事は「全ての知識を自分の手で検証しよう」という暴論ではなく、「自分の知識は間違っているかもしれない」と自覚する事です。これは何に対してでも言える事です。人間は神様ではありません。もし十分に検証を重ね確認した答えであっても、何かのミスで間違いが起こっていた可能性はあります。自分の知識を過信しない事で、ミスがあった場合は発見しやすくなり、またその姿勢は慎重さに繋がりミスの発生を抑える事にもなるでしょう。自分の考えを過信する事は危険しかありません。
 ただし、自分の考えを疑うという行いは不安を引き起こす副作用もあります。自分は間違っているかもしれない、間違いによって損を被るかもしれない、人に迷惑をかけるかもしれない…… そんな悩みの中で日常生活を送るのは苦痛以外の何物でもないでしょう。これに対する最適な対応策は鈍感になり腹をくくる事です。瑣末な間違いによって引き起こされる瑣末な問題は、どうでもいいと。気にしないと。何か起こったらその時はその時だと。
 さてさて、ここまでで私が善しとしている人間像をまとめると「自分の考えを疑う」「瑣末な問題は気にしない」という、一見してろくでもない人格のように感じるかもしれません。ですがこれは少々極端かつ簡潔な表現になってしまっているが故の事です。では上記の人間像を逆転させると「自分の考えを過信する」「瑣末な問題も過度に気にする」といった形になるでしょう。これはこれで困った人間のように感じます。
 何事も、適度に。上で書いたように自分を疑いすぎて不安と苦痛の中で生きるのも、自分の考えを過信して偏屈で排他的になるのも、どちらも善しとは言えません。私のこの話も絶対の真理という訳ではなく、あくまで私の持論にすぎません。まずは自分なりの考えをまとめ、それを肩の力を抜きながら適度に掲げて生きる。その上で時々で良いので、私の言葉を思い出して「自分の考えは本当に正しいのか」を見つめ直して頂ければ、私は嬉しいです。

 

今日はこのあたりで。

それではまた、この世界の片隅でお会いしましょう。

言葉という道具

 胃もたれ、胸焼けの違いは分かりづらいです。これはどちらも胸~腹にかけた不快感であり、私なりの解釈であれば胃もたれは「胃および下腹部に感じる重い、炎症したかのような不快感」で、胸焼けは「胸あたりに感じるムズムズもやもやした不快感」だと言えます。しかし、この表現で人に伝わるかどうかは難しい所でしょう。
 人間は言葉を作り、現象を言葉という形で理解し伝達し支配してきました。全ての文明の礎となる人類最高の発明と言っていいでしょう。しかしそれ故に、我々は言葉を誰もが使いこなせる単純なものと誤解してはいないでしょうか。上記の胃もたれと胸焼けの例のように、形のない何かを現すには、言葉はあまりに融通が効きません。なまじ普通に文章が書け、話せていると忘れがちですが、言葉というものは使うのがとても難しい道具なのです。
 我々はみんな学校で国語を勉強します。文字の書き方、漢字を学び、多くの物語を読み、そして要旨を捉えたり感情を感じ取ったりしながら、言葉という道具の使い方に慣れてゆきます。そして会話という形で日常生活で当たり前のように言葉を使うようになった時に、自分はもう言葉の使い方はマスターしたと慢心するようになります。
 しかしそれは当然、間違いです。言葉を簡単に使えているのは、言葉を使う相手が友達、家族、そして慣れ親しんだ環境であるからです。たとえば突然、歳の離れた人間と会話をしなければならなくなった場合、少し躊躇するのではないでしょうか。国や立場が大きく違う相手でも同じでしょう。それは会話に限った話ではなく、手紙など書き文字でも同じ筈です。また、曖昧なものを表現する事も非常に難しいです。たとえば貴方が登山をして、素晴らしい日の出の景色を見たとします。その感動を言葉で表現しきる事は出来るでしょうか? 「綺麗」「日の出」といった言葉は存在します、しかしただそれを並べただけでは「感動」は全くといって良いほど表現できず、「ただ日の出を見た」という「情報」しか伝わりません。その感動は、細かく複雑かつ分かりやすい表現をしてようやく、ほんの少しだけ伝える事が出来るのです。
 言葉を使いこなす事は難しい。では、なぜ言葉の使い方をマスターしたと慢心する事が出来るのでしょうか。それは「言葉を並べている」と「言葉を組み立てて表現する」を同一視しているからだと思われます。繰り返しになりますが、言葉は道具です。同じ道具でも適当に扱うのと、技巧を凝らし集中して扱うのとでは難易度も結果も違ってくるという事です。
 言葉の難しい所は、ほとんどの場合「相手」が居るという事です。言葉は何かを伝達する手段。だからただ情報を羅列するだけでなく、相手に合わせて言葉を組み立てねばなりません。導入、表現、順番、比喩、不要なものは省略し、軸となる要素は強調する。ルールや礼節が存在する事もある。これらを上手くこなすには相手の思考と感情を想像する事も大切です。更には、もし自分が完璧に言葉を扱えたとしても、相手が上手く受け取ってくれるかはまた別の話です。自分のアウトプットと、相手のインプット。難しい二つのプロセスを通してようやく「表現」は成立するのです。
 言葉は使いこなすのが難しい道具ですが、何かを表現するためには必須の道具でもあります。言葉そして相手と真摯に向き合ってゆけば、今日よりも明日、明日よりも未来はもっと豊かな表現の中で、彩りある毎日を送れるようになれる筈です。そのためにもまずは、いつもの挨拶、いつものSNSでの発言、そういった部分の言葉選びに少しだけ時間をかけてみてはいかがでしょうか。


それではまた、この世界の片隅でお会いしましょう。

奥日光三名瀑

 よく世界三大●●や日本三大××といったものがありますが、どうしてこの数字は「3」なのでしょうか。理由はさておき3という数は多すぎず少なすぎない絶妙な数である事は確かです。かくいう私も、本日は休みだったのでふらりと奥日光へと小旅行に繰り出したのですが、奥日光三名瀑という滝3つを回るぐらいが時間的に丁度良かったと感じました。

 バスを乗り継いてまず向かったのは、奥日光の更に奥地。いまだ雪に囲まれた「湯滝」です。ここは湯元温泉という温泉の近くであり、「湯ノ湖」の水が「湯滝」となり、そして「湯川」となるあたり、温泉と関係している名前である事は想像に難くないでしょう。

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 どこもかしこも雪、雪、雪。山道で勾配が厳しい場所もあり、更にはよく晴れていたために溶け出している箇所も多かったです。足を取られないか不安になりながら何とか歩みを進めると、小さな食堂とデイリーヤマザキが見えてきました。(写真奥の建物です)

 そして、少しずつ聴こえてきた水音は……!!

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 奥日光三名瀑のひとつ、湯滝!

 この滝は水が「落ちる」というよりも、急な斜面を「滑り降りる」ような滝でした。斜面のあちこちにある岩に水がぶつかり、まるで無数の白糸のようになって滝壺へ注ぐ姿は圧巻でした。左右の山肌には雪が見えますが、滝もこうして写真で見ると雪のように見えますね。水の紡ぐ白色のなんと美しい事か。

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 滝壺に鴨がいたのでカメラを向けてみましたが、お尻を向けられてしまいました。魚を獲っているのかな?

 名瀑の名に恥じない雄大な風景を楽しみ、目の前の食堂でお昼ごはん。湯葉蕎麦と鮎の塩焼きを頼みましたが、蕎麦はまぁ普通の味といった所。それでも名瀑を目と耳で感じながら食べる食事はそれだけで格別でした。

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 食事中、たまに石が降ってくるような硬い音がしていたので何事かと思っていましたが、帰り際に店を見て仰天。巨大なつららがわんさか生えていました! しかも、どれも溶け出しています…… 真ん中のつららは目測1.5mといった所でしょうか。こんなものが頭に落ちてきたら……ヒエエ。

 さてさて気を取り直して。またも雪の山道をかきわけ国道へ戻ると、バスを待って次の滝へと向かいました。次の滝は湯滝ほど奥地ではないので、バス停から歩いてすぐの所に展望台が設けられています。

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 奥日光三名瀑のひとつ、竜頭の滝。

 展望台から見える景色は、滝が二手に分かれて双頭の竜のようですが……お、おお? 滝の上に雪が覆いかぶさっている!? まるで雪のトンネルを滝がくぐっているようです。厳寒期はどうなっているのだろう、気になる……

f:id:blue_log:20170330220553j:plain ズームで見てみても、水に触れた所だけがくり抜かれたように溶けてます。どうやって積もったのやら…… 自然の不思議な芸術作品に心を奪われてしまいました。

 さぁどんどん行きましょう。残る奥日光三名瀑は…… ふふふ、賢明な皆さんならもうお気づきではないでしょうか? 「奥日光三名瀑」というローカルなものは知らずとも、日光を代表するあの有名な滝が出ていないと。

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 良い天気だったため、中禅寺温泉で降りて少し歩く事に。男体山のお膝元です。雪は残っているものの寒すぎるという事もなく、心地よい陽気でした。晴れて良かったです。さてさて勿体ぶらずに参りましょう。最後の滝は……

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 奥日光三名瀑のひとつ、並びに、日本三大名瀑がひとつ。華厳の滝です!

 他の二つの滝も良かったですが、やはりこの天から降り注ぐ水が滝壺に突き刺さるような、激しい落差を落ちる滝こそが、日本人が心に描く「滝」の姿ではないでしょうか。ただ悲しいかな、現地で見る分には壮大でしたが、写真写りが今ひとつですね…… 梅雨など水量が多い時期だともっと水量が多いようですね。

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 ちょっと拡大。やっぱりもう少し水量が欲しいですね。あとは逆光だった事も辛かったです。ちょうど夕方になると逆光になるんですね。次に行く時は、梅雨の時期の朝にします。

 という訳で奥日光三名瀑をめぐり終え、後はまたバスを乗り継いで帰宅。トータル八時間ほどの小旅行でした。初めて写真を載せましたが、ちょっと枚数が多すぎでしたね。久々にカメラを持って出かけたので少しはしゃいでしまったようです。それにしてもカメラで写真を撮る、という行為はシャッターボタンひとつで出来るようでいて、本当に難しいですね……

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 青空の色ひとつ、思うように映せません。この今日は本当に空が綺麗でした。山の上で空気が済んでいるせいか、はたまた山の影や陽の位置がそうさせたのかは分かりませんが…… 私が見た青空は、この写真よりももっと鮮やかで「空はこんなに青いのか」と思わせる程でした。

 

 さてはて、今日はこのあたりで。

 先日書き始めると言った小説は進めてはいるものの、遅筆なものでまだなかなか形には出来ていません。以下のような概要は固めて進めているので気長にお待ち下さい。

【タイトル】真夏のつらら
【ジャンル】ファンタジー
【あらすじ】離島のコンビニ風個人商店でアルバイトをする少女ノギク。
 特にトラブルもなく働いていたものの、相場の倍もするバイト代、オーナー以外入ってはいけない冷蔵室、そして小さな奇妙な怪奇現象の数々に少しずつ不安を募らせてゆく……(※ホラー要素はありません)

 

それではまた、この世界の片隅でお会いしましょう。

はじめて企画を立てる際に起こりうる、3つの問題点

 昔、ゲーム制作会社に勤めていた頃に上司に言われた言葉があります。

 「面白さを直接説明できる仕事仲間に伝わらない企画は、ユーザーにも伝わらない」

 これは今でも大切にしている言葉です。さらに、私なりにこの意味を噛み砕いて考えると、この言葉の裏には以下の3つの問題点があるのではないかと思えてきました。

 

●イメージが曖昧
 頭の中だけでぼんやりイメージしているだけだと、どうしても都合良く考えてしまいがちです。
 たとえば問題や欠点から目を逸らす、細かいディティールがないのにあるように解釈する。あるいは面白いと感じる要素が既存の作品から影響を受けているために、その作品の完成度をイメージの中で混同してしまう。
 などなど。

 

●アウトプットが上手く出来ていない
 もし仮に、企画が本当に面白いものだとしても、それを言葉で上手く表現できないために相手に面白さが伝わらないケースもあります。
 「面白い企画なら言葉で表現できずとも問題ないのでは」と考える方もいらっしゃると思います。ですがそもそも表現出来ていないものが面白いかは、証明する手段がありません。言葉で表現できないという時点で表現の仕方、あるいは前述のようにイメージ段階で問題があると見て良いでしょう。

 

●キャッチーさ、シンプルさが足りない
 どうしても外せない譲れない骨子以外の要素は、なるべくキャッチーかつシンプルにした方が良いでしょう。過度にオリジナリティ・リアリティをこじらせた結果、全体が分かりづらくなってしまっては元も子もありません。入り口に何か興味を引く要素がなければ、手にとって貰える機会すら減るでしょう。
 また、そういった判断と対応が出来ないのならば、悪い意味で意固地になっているか、あるいはやはり前述のように骨子のイメージが明確でないという可能性もあります。


 さて、ここまで3つほど「企画でありがちな問題」を書きましたが、これらの問題を無くす方法は意外と単純です。
 明文化、最低限の形にして、信頼できる友人に見てもらう事です。
 「イメージが曖昧でないか」「必要な情報をアウトプット出来ているか」「キャッチーさがあるか」は、やはり第三者の目で判断してもらう事が一番です。
 そして貰った指摘について取り入れるか否かは自分次第ですが、どちらを選択するにしても「理由」はしっかりと明示しましょう。
 少々堅苦しいかと思いますが、こういった企画の問題点は、慣れてくれば無意識に回避できるようになる筈です。

 

 これはあくまで私の持論であり、商業寄りの考え方ではあります。ですが個人の趣味による創作活動でも当てはまるとも考えています。多くの創作活動は「誰かに見て貰いたい」という意識がある筈です。ならば、企画する際に大切な要素はそこまで変わらないのではないでしょうか。もちろん、趣味であるならば楽しさ・自由さは優先されるべきですが、それらを優先した上で上記の事を意識しているといないとでは、出来上がってくるものが変わってくると思います。

 

 さてさて、長くなってしまったので今日はこのあたりで。
 「企画の立て方」「効率の良い進め方」といった話の方が建設的だったのかな……?
 なかなかブログの記事を書くのは、いや記事の内容を選ぶのは難しいですね。

 どうにも偉そうな書き方になってしまったとも思いますので、私自身、私の持っているこの考え方を軸に小説を書いて行こうと思っています。
 こんな言い方をするとどうにもハードルを上げてしまう気もしますが、私自身上記の3項目を抑えられているかは不安ですので、練習・確認・実践、そんな軽い形で見てもらえれば幸いです。
 流石に明日いきなり発表とはいきませんが、日々の記事の中で進捗についても書いて行きます。

 

 

 それではまた、この世界の片隅でお会いしましょう。

小児性てんかんと、超短期的な記憶障害の話

 私は子供の頃、小児性てんかん(だと思われる症状)に苦しんでいました。

 

 はじめての発作は小学3年生ぐだいらったでしょうか。

 父と公園でキャッチボールをするために家を出ようとした所で、何故だか急に言葉が出なくなってしまい、父との会話が出来なくなりました。

 私がふざけていると思った父は「ふざけているのなら公園に行くのはやめだ!」と怒ってしまい、私は悲しくて、そして自分に何が起こっているのか分からず泣いて暴れはじめました。

 ようやく私の状態を不審に思った父が、言葉が出なくなっている事を悟ったのか、「大丈夫か? これが何か分かるか?」とスーパーファミコンのカセットを指をさしたのを覚えています。私は当然それがゲームカセットだと分かってはいましたが、やはり言葉は出てきませんでした。

 そのあたりから記憶は曖昧です。高熱を出し、倒れた私は周囲のものが異様に大きく見えたり、音がエコーがかかって聞こえたり、異様な感覚の中で寝込みました。

 しばらく寝ると熱は引き、症状は収まりましたが、心配した母が病院に連れて行った結果、てんかんの発作「のようなもの」という説明を受けました。……これは今でも不思議なのですが、医者も、母も、何故か「てんかんのようなもの」という表現を終始徹底していました。

 

 それからは投薬と検査が日常の一部となりました。というと大げさで、毎食後に4錠の薬を飲み、定期的に脳波と採血の検査を行うというだけで、特別日常生活への負担はありませんでした。

 ですが、たまに薬を飲み忘れると発作が起こります。

 症状としては頭痛、発熱、意識朦朧といったものが中心で、時間を置けば治る事がほとんどですが、もし屋外で発症したらと思うとぞっとします。

 そんなこんなで治療を続け、大学に入る頃には完治してくれたのですが……

 

 さてはて、前置きが長くなってしまいました。

 この発作の中で、時折不思議な体験をしていた事を書こうと思います。

 

 てんかん治療中の事です。たとえばアニメ、たとえば小説。何かの作品に熱中していて、そしてそれが終わった時…… 「頭が現実に帰ってこれない」という経験をしたことが何度もあります。

 はっきり覚えているのは、夕方にドラゴンボールの再放送を見ていた時の事。天下一武道会で、天津飯が四妖拳を使っていた回だったと思います。アニメを見終わった私は、台所の母親から「夕飯だよ。電話の子機を持ってきて」と言われました。当然私は子機を取ろうとしたのですが…… 電話の場所が、どうしても思い出せませんでした。

 おかしな話です。物心つく時から電話機を置く場所は変わっていないのに、どうしても思い出せませんでした。更に、自分の名前や母親の顔など、絶対に忘れる筈のない記憶がその十数分だけは完全に頭から抜け落ちていたのです。かろうじてトイレに駆け込んだ私は、深呼吸をしながら、何か思い出せる事は無いかと考えはじめました。すると何故か、別段思い入れがある訳でもない、通っている学習塾の事を思い出す事が出来ました。そして、学習塾から通塾の道を、通塾の道から自分の家を、たどるようにしてひとつひとつ記憶を取り戻し、ようやく当たり前の記憶を全て思い出して夕食に向かった事を覚えています。

「遅かったじゃない」と母に言われましたが、自分に起こっていた事を話すのは何だか怖くて、黙っていました。

 

 それからも何度か、この時ほど強いものではありませんが、作品読了後の短期的な記憶障害のような経験はありました。漫画や小説などでは、思い出せない事を思い出そうとすると「うっ……頭がっ」と苦しむ描写がありますが、私の場合は思い出そうとした途端に頭が真っ白になる、思考が止まる、フリーズするといった感覚でした。いざ短期間ながら記憶を失ってみて、いかに記憶というものが曖昧で簡単に消し飛ぶかを思い知らされました。

 

 今ではもうそんな事はありませんが……

 それでもたまに、物語を読了した後に、「違和感」を覚える事があります。

 「あ、そうか。これが俺の世界だったっけ」といったような、一歩引いて、確認するような感覚。もうてんかんは完治しているとは思っているのですが、こういった経験があるとたまに不安になります。

 

 ですがこういった経験・体験も何か物語を書く際に糧に出来れば良いなと、前向きに考えていこうと思います。記憶を飛ばす体験なんて、なかなか出来ませんからね。

 

 うーむ、やはり文章を書くという事は難しいですね。

 書きたかったテーマは後半なので、前半はもっと短縮して良かったです。

 戒めのために、このまま投稿しておこうと思います。

 

 

 それではまた、この世界の片隅でお会いしましょう。

ブログはじめました

友人のすすめでブログを始めてみました。

 

文字を書くのは好きなのですが、あまり良くない意味で凝り性といいますか、構成だったり表現だったり色々と考えすぎて遅筆になってしまう事もしばしば。

このブログを通して、少しでもスムーズに文章を書けるようになれれば良いなと考えています。

 

成り行きで始めたため、内容についても特に考えていません。

まずは日々の事、趣味を中心に書ければ良いなと思っています。

 

見切り発車でフワフワしてはいますが、暖かく見守って貰えると幸いです。